林:うん。つまりドキュメンタリーはひとつの作家性のあるものであると。

佐野:その監督、そのカメラで世界を覗いているその人の私的なものに反映されているものであると思ってるけどね。誰かの為の物ではなく、、。
ただそこに一つ大きな戦いが待っている。
つまり例えば僕を撮ろうとして、佐野元春のドキュメントを林さんがドキュメントしたいから行くぜ、という話でね。
僕とは別に戦わないんだけど、林さんがその後誰と戦うかということになると、僕のファンと戦うことになる。
僕のファンも何万人いるかわからないけども、彼等は僕の音楽を聴いて、自分の音楽として受取ってくれている人が何人もいる。自分の中で独自のストーリーを僕の曲に持ってくれているし。
それは音楽を聴いている人の楽しみなんじゃないかな。
そのストーリーが正しかろうが、正しくなかろうが、まぁ正しい正しくないなんていう価値さえそこにはないでしょ?
皆思い思いの形で自由に楽しんでいてくれる。
それはそれでオーケーなんだよ。
ところが林さんが切り取った佐野元春、あるいは佐野元春音楽が、そうしたファンが観た時に「違う、それ違うよ」って言われたら、そこから戦いが始まるわけなんだよね。
戦いったってそんな喧嘩する訳じゃないけれど。
多くの僕の音楽の聴き手が観た時に、「僕とは視点は違うけど、私とは視点は違うけども、なるほど、そういう視点もあるんだね。オッケー!」って言ってくれたら、その戦いは林さんの勝ちになる。
だけど、「なんだよ、違うよその視点は。ブー。」って言われたら、その戦いは負け。
あるアーティストや、もう既に社会の中でオーソライズされてしまっている人達を対象で、ドキュメントをする時の難しさは、たぶんそこにある。

林:うーん。

佐野:僕は、ドキュメントは好きなんだけどね、、よくテレビの隙間でやってるお涙頂戴のドキュメントは、本当にね、吐き気がするくらい嫌なんだよ。

林:(笑)

佐野:結局そうした時に選ばれる対象者っていうのは、たいてい何かストラグルを抱えている、あるいは問題を抱えている対象だよ。
だから僕はドキュメンタリー作家に求められる要素・素子はもの凄く厳しい基準があるんじゃないかって思うよ。
もちろんそのフィルム・映像という物が持っている力を、ある種絶望もしてるし、よく知ってもいる。まずこれがひとつの条件。
もうひとつは、真実は何処にあるんだという、あくなき探求の精神があるか、これが二点。
その探求というのは、これはもう当てもないものであるわけだから、一つのものを見た時に、どれくらい横から上から下から斜めから、あるいは遠くから近くから、一つのものを見る能力があるかどうか。これがまた求められる。
そして最後に必要なのは、人生に対するユーモアのセンス。
結局、人生というのは、非常にやりくりしていくのは難しいかもしれないけれど、最終的には、人生というのは素晴らしいものなんだということを、無意識に表現出来る能力のある人。
意識的にそれをもっていこうとすると必ず失敗する。手法が見え過ぎてしまって、僕なんかは見ていて(佐野さん:親指を立てて下に向ける仕種)。
まぁこれは凄く難しい。おとぎ話を紡ぐ作家の方がどれだけ楽かって僕は思うね。

林:ええ、僕もそう思います、凄く。

佐野:でも多くの人々はファンタジーを求めてる。
だからおとぎ話映画が商業映画として売れるんだよね。
ドキュメンタリーがバンバン売れてるなんていう話は聞いたことがない。
ドキュメンタリー映画を好む人達というのは、たいてい、社会や世界に対して意識的な人達。
この物事はどうなっているんでしょうかね?って、クエスチョンマークが浮かぶ人がドキュメンタリー映画を見ようとする。
そうした彼等が相手だということをやっぱり十分意識して。
難しいのは、じゃ僕なんかを撮ると結局ファンタジーを求めている視聴者もそれ相当の数がいるわけで、そうした彼等と何処で折り合いをつけるのかどうかということが、難しくなってくる。


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