佐野元春の存在

佐野元春という人は僕にとって特別な存在である。
何故なら、ある意味で僕の人生を決めた人と言っても過言ではないから。
僕が学校を出て、そして大人達の社会に入って
「ああ、大人達の社会ってこんなところか」とあきらめ、大人達に混じってうまく生きていこうと思い上がっていた頃だ。
そんな時、大人達の社会を動かしている同世代の佐野元春に出会った。
彼はステージ上で飛び跳ねて「つまらない大人にはなりたくない」とシャウトしていた。
そして客席で同世代のオーディエンスに混じって僕は揺れた。
僕は眼鏡をかけたロッカーを初めて見た。
しかも、リーゼントをしたりサングラスをかけたりしているどの人たちよりも過激だった。
完全にノックアウトされた。
それ以来、当時流行しだしたウォークマンの中にはいつも佐野元春の音楽が入っていた。
「いつか佐野元春を撮って最高の作品を作りたい」という一念だけでまだ確立されていなかった音楽映像の世界に入った。
完全な自信があった。
しかし佐野元春はニューヨークに行ってしまった。
1983年のことだ。
ニューヨークから送られてくる「THIS」を読みながら、数少ないプロモーションビデオ番組TVK「ミュージックトマト」から予告なく流れ出す「TONIGHT」をやっと家庭用になってきたビデオで録画してそれこそすり切れる程何回となく見ながら、僕は待った。
それから数年後、突然夢は叶った。
僕の最初のディレクターとしての佐野元春の仕事は、87年の横浜スタジアムでの「CAFE BOHEMIA MEETING」で演奏された「ハッピーマンメドレー」の編集だった。
この作品は「OUT TAKES」として世に出た。
僕は有頂天だった。
もちろんそれまでにカメラマンとしてはいくつかのライブを撮ったけれど。
この「CAFE BOHEMIA MEETING」にも参加した。
ちなみに僕のポジションはクレーンに乗ってのステージバックショットだった。
印象的なのは「99ブルース」の古田たかしのドラムから始まる長いオープニングカットだ。
自分でもとても気に入っているカットだ。
それ以来、佐野さんと一緒に数多くの作品を作ってきた。
佐野元春の仕事は今でも有頂天になる。
それぞれの作品に“思い”があってどれが一番というのはとても言えない。
昨年20周年ライブの大役を仰せつかった。
僕にとって佐野元春の偉大な20周年はとても大きすぎると思った。
でも僕がやらなければ誰がやる?と思いもした。
何故なら、僕にとっても20周年だから。
そして僕も佐野さんも大好きなアトムの生まれた21世紀に突入した。
僕は21世紀から“初めたこと”を残したかった。
だからホームページを作った。
そのきっかけになったのもやはり佐野元春だった。
現在、佐野元春の新作アルバムのレコーディングドキュメントを撮影している。
ある休憩時間に佐野さんが僕に、
「僕のHPにこのドキュメントを近い将来に映像で流したいんだ」と言った一言が決め手となった。
それまでHPにどうしても意義を見いだせなくて躊躇していた僕に灯台の光をともしてくれた。
やはり佐野元春だった。
だから第一回目のゲストは絶対に佐野元春じゃなきゃいけなかった。
無謀なリクエストに佐野さんはいとも簡単にOKしてくれた。
この対談は5月の連休の真っ直中、横浜のレコーディングスタジオでミックス作業の合間に行われた。
テーマは「映像を語る」。

お待たせしました、「佐野元春 映像を語る」後半です。
                              

 林ワタル
 
 
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